品川宿  大木戸から品川宿                            
   品川駅前から第1京浜を南下し、八つ山橋の京急線踏切を渡るとそこは品川宿。品川では不思議と祭りに出会った。板垣退助が眠る品川神社の祭典は53段の石段を葵御紋の法被を纏った男衆が黒御輿を担ぎ、木遣りを奏でながら神降りを演出する。九月の宿場祭りでは花魁道中が。何と花魁に肩を貸しているのは外国人だった。

 京急北品川駅付近が御殿山。高台の桜の名所地で高輪台から御殿山一帯は毛利、岩崎邸もあった高級地。陛下も退位後は高輪にお住みになられるとか。

 幕末、ここに英仏米等が強引に公使館を置き、反駁した攘夷派がそれをねらった。英国公使館の焼討ちは、髙杉晋作、久坂玄瑞、井上聞多、伊藤俊輔ら松陰門下生の仕業。謀議を凝らしたのが妓楼相模土蔵で、その間遊興に遣った借財は50両超。その金の工面には聞多が走って、藩重役から100両せしめてきた。品川船溜りに往時を残している。

この品川宿に至る間に少し寄り道。泉岳寺である。
赤穂浪士45士の墓他48の墓碑があり、線香が絶えない。
 
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 品川宿は北品川と南品川からなっている。道幅は往時の東海道とほぼ同じ。我が家も旧東海道に面しているが、子どもの頃の道幅と品川宿の街道幅はほぼ同じである。緩やかなカーブを描いている、松並木があること等が東海道の特徴。品川商店街の人たちは、この街道の雰囲気を残そうと活発に活動されている。広重風のシャッターも面白い。新橋横浜間の鉄道は品川沖を走ったことは前回の述べた。旧東海道のすぐ東側は海岸だったのである。品川の船だまりが往時を偲ばせる。鯨塚、御殿山台場、品川台場等浜の町で会ったこと、幕末の海防の一端もうかがえる。
他に、領事館等が置かれた寺が現存している。
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  品川宿余話
東海道53次を歩いてみようというのは、この時が初めてではなかった。すでに数年前に日本橋から品川まで、歩き始めていた。その後、頓挫した。
 再び、歩き始めたのが9月17日のことだ。後から気が付いたことだが、この日は母の一周忌だった。

 品川駅校内は整備されて駅はまるでデパートさながらの様相を呈している。しかし、駅を降り立つとご覧のとおりだ。駅から左に向かう。ホテルラフォーレ御殿山のある御殿山ヒルズの方向に1号線を歩み、やがて八つ山橋交差点左折、すぎに右折して左折。京急北品川駅を左に見て踏切をわたる。
 踏切を渡ろうとする瞬間、遮断機が降りた。隣には自転車に乗った年齢のお巡りさんとともに足止め。長い!「開かずの踏切ですわな」。お巡りさんも僻々している。これがおもしろい。踏切の開くのを待つ隣人と同じ調子で苦情を語る公人もそうはおるまい。開いた瞬間。急いで二人は踏切を駆け抜けて。ここからは、北品川の商店街。