Takuの折り折りに     
令和6年 
9月1日   <再掲> 突き抜けて 天上の紺 曼珠沙華 山口誓子
    夏のぎらぎらとした青空は、いつになったら紺碧の秋の空に変わるのでしょう。まだまだ続く夏の空、何となく重い九月に入って暫くすると我が町沼川の土手に群生している赤い曼珠沙華が咲き始めます。「突き抜けて」、山口誓子流の見事な表現。秋の空は、まさしく「突き抜ける」ように透明です。その天上の紺と曼珠沙華の赤が鋭角に対峙します。曼珠沙華には白もありますから、青と白のコントラストかもしれません。山口誓子は、対比的な秋の色彩の美を描きました。
 
曼珠沙華は変な花で、まず葉っぱがありません。そして別名がおぞましい。お彼岸の頃に咲いて彼岸花。彼岸花はサンスクリット語で天界に咲く花だとか。死人花、幽霊花、地獄花とも。それらは彼岸花から派生した別名で、毒花、痺れ花とも呼ばれます。これは、曼珠沙華はアルカロイド毒素を含んでいて、田んぼのあぜ道に植えられてモグラやネズミから田を守りました。同時に球根にはデンプンが多く含まれ、それを水にさらすと毒が抜けて食べられます。それで飢饉に備えた花だったとか。秋の到来を私は曼珠沙華の花で悟ります。
そうそう、葉っぱは花が枯れてから生えてくるのだとありました。これも妙です。
 
 
※曼珠沙華=石蒜(せきさん) 和漢三才図会には「しびとばな」とあります。
8月2日   夏草や 兵どもが 夢の跡  奥の細道 松尾芭蕉
   八月の句ではない。詠まれたのは元禄2年5月13日(新暦6月29日)、おくの細道紀行、奥州は平泉、芭蕉が高館で詠んだ句で季節は梅雨。旧暦では6月までが夏で7月からは秋。新暦は大体旧暦+1月だから、新暦8月はもはや秋。で、8月の季語に夏草はあり得ない。この猛暑では信じられないが。この句の前書きに「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」とある。杜甫の春望を引いて「夏草や」とし「笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ」とある。藤原三代の栄華と人々の生活、死闘を繰り広げた武士たちの夢。それらははかなく消えて、今やぼうぼうたる夏草のはてにある。これに私の人生が重なる。20数年暮らした家(家内の実家)は、住む人がいなくなり、今年の1月半ばに打ち壊して更地になった。それから月を経て、今やその地に到ると、夢の趾だ。家庭を営み、子どもたちが育った地には夏草が生い茂る。あんなに狭いところに暮らしがあり、人生を費やしていたのかと、むなしさがこみ上げてくる。「夏草や夢の跡」である。
7月2日   五月雨や 名もなき川の おそろしき   与謝蕪村
   梅雨時の俳句では与謝蕪村が図抜けていると思う。「五月雨や大河を前に家二軒」は絵画的な写実で大河と家二軒の対比を狙う。この句は「おそろしき」と感情語が入る。この句を取り上げたのは、近年の異常気象だ。まさしく、名もなき川が氾濫して被害をもたらせている。五月雨は長雨であり梅雨。「五月雨を集めて早し最上川」芭蕉は詠むが、集めるどころか、濁流滔々と下流に集り、猛勢一挙に、だから避難するしかない。我が町沼津市原の西添地区では、沼川、前川という名もなき川があふれ、住宅地を襲う。「おそろしき」だ。
 それにつけても、秀逸な蕪村の句は、正岡子規が現れるまで埋もれていて、俳句界では見いだされなかった。界は往々にして俗化して宝を失う。子規が現れて安堵の我が国の俳句会の歴史だ。
5月8日  <再掲> 目には青葉 山ほとぎす 初鰹   山口素堂
    高田郁の「みをつくし料理帖」第7巻夏天の虹哀し柚べしに初鰹が出てくる。まな板に小判1枚初鰹(其角)。庶民には高値で手が出ない。売れ残りの初がつを、魚屋に拝み倒されて三分でつる屋の種一は買う。一両の四分の一が一分。おおよそ2万円弱だから6万円程になろうか。それを又次が超薄切りにして無償で客に振る舞う一節。江戸っ子は見栄っ張り。初がつを食した客は感激の極まりだった。戻り鰹はうまいのに、江戸っ子は猫またぎ扱いで手も出さない。それを描いたのが第1巻の「はてなの飯」。おもしろい。初鰹は1匹40万円位する場合もあって、卯月10日でも3分。初物を食す。それが粋。庶民はじっと値が下がるのを待つ。現代はマグロが高値。本マグロなど最近は食したことがない。キハダマグロがいいところだ。青葉、ほととぎすの時期の「初がつを」は、もう皐月。青葉の時期の初がつをは初ものからずっと下った季節。庶民がやっと食べられる季節になったということ。この句、目には、で始まるが、耳には、口には、が伏せられている。季語を重ねて、この季節を描いている。素堂は芭蕉と同門。親交があった。
4月15日   春風や闘志いだいて丘に立つ 高浜 虚子
   年尾に次いで父親の句の登場です。「春風」は、はるかぜと詠むかしゅんぷうと詠むかに分かれるそうです。はるかぜと詠むとなんとなく柔らかで温かく春の風らしく感じます。闘志という中の句の強く固い感じとぶつかります。私は、入学や新学期の頃の感じは、はるかぜかなと思いますが、句としては「しゅんぷう」という激しさ、闘志という勇ましさやごわごわした感じ、それが丘に立つと響き合い、句としては整合性が出てきます。中学校の教科書では「はるかぜ」と詠ませていました。しゅんぷう等と詠むと春風亭昇太を連想してしまいます(笑)ね。昨今は、「春風やコロナが舞うかと闘志萎え」です以上は掲載済みの解説。今年の4月は、一挙に夏だったり激しい雨に見舞われたりで、桜を愛でる暇(いとま)もありません。もう、桜も散るに嘆きです。さらに、春風や裏金政治に怒り立つ です。あーあ。
3月2日   老いゆくは 寂しきものよ ひな祭り 高浜 年尾
   我が家にも娘が一人。娘が生まれてひな人形を揃えた。木目込みの人形だった。雛祭りは娘のお祭りだった。が、やがて娘は嫁ぎ、子供も生まれたが、すべて男子で、ひな人形は不要だった。かくして、年を経た今、かの木目込みのひな人形は箱の中。箱入れ娘だ。おひな様を飾って、娘の健康と成長を願った頃が懐かしい。ひな祭りは平安時代を濫觴とするらしい。もともとは古代中国に上巳の日(3月最初の巳の日)に川で身を清める風習があって、それが我が国に伝わり、やがて草や藁等で人形を作り汚れや災いを移し、川や海に流すようになった。だから、ひな人形は流し雛であり汚れ祓いで災い除け。我が娘も決して丈夫ではなく、木目込み人形に健康な成長への願いを込めたのだった。不要になったひな人形を見て、来し方がしのばれて、「おいゆくは寂しきものよ」と感じられる。かつて、この日はちらし寿司を作って浜で食す、それが風習だったが、今はない。先日、地元の小学校に伺ったら、玄関脇に立派なひな壇が飾られていた。聞けば地元からの寄贈だという。我が家と同じく不要になったらしい。詠み手、高浜年尾は高浜虚子の実子。年尾は正岡子規の命名とか
2月1日   磐走る垂水の上の
  早蕨の萌え出る春になりにけるかも 万葉集巻八 志貴皇子
   この歌を2月の歌にしていいかどうか。源氏物語48帖は「早蕨」。大君を亡くし姉を亡くした中君の元に例年と同じく阿闍梨から蕨と土筆が届く。舞台は2月。が、これは旧暦で新暦では3月中旬。だが、芽を出したばかりの早蕨と峻烈な水しぶきを上げて流れ下る垂水のイメージは2月。が、早蕨の旬は3月中旬から6月。3月の歌かと思ったが、まあいいかで2月の歌に採用。芽の出たばかりの蕨の初々しさ。雪解け水が勢いよく水しぶきをあげて岩場を下る。そして萌え出るという生命感。早春の産声でいいだろう。今年は2月10日が旧正月。志貴皇子は、天智天皇の第7息子。時代は天智系から天武系。皇子は文化人として息を潜むようにして生きられた。
1月6日   あたらしき 年のはじめは 楽しかり
       わがたましひを 養ひゆかむ  斎藤茂吉
   本当にそうだなと思う。「新しい年のはじめは楽しいものです。私の心を養いましょう。」くらいの意味ですが今年の元旦は旧暦では11月20日。江戸時代なら元旦でも大晦日でもない普通の日。特別な日ではありませんから、この日が楽しいとか心を養おうなどと思うわけがありません。振り返って今日の元旦。深夜の午前零時。地元の神社や菩提寺には人が訪れ、神頼みしたり菩提寺に出かけ祖先と新年を祝ったりします。そうして、この日を年始めの日として心新たにします。「なんとなく今年はよいことあるごとし」は啄木。「新たしき年の初めの初春のけふ降る雪のいやしけよごと」は大伴家持の作で万葉集最後の歌。「いやしけ吉事」に元旦の願いがこもっています。茂吉は我が魂(心)を新たにしようという心を抱く、それを楽しいと言います。そこに茂吉を感じます。私も心新たにして「わがたましひを 養ひゆかむ」
令和5年  
12月2日   冬の水一枝の影も欺かず  中村草田男 
   冬を詠んだ和歌俳句の中で私が好きな俳句の一つ。冬の水を湛えている水面に映った一枝。水面(みずも)は鏡のようにその輪郭を映し出している。張り詰めた冬の空気が伝わってくる。一方、冬の季語には「木枯らし」もある。「木枯らしの身は竹斎に似たる哉」(芭蕉「冬の日」)。水面波立ち、漱石は「凩や海に夕日を吹き落とす」と詠む。冬の海は凩に波立ち、その波で夕日は隠れ、まるで落とされてしまったよう。ともに冬。清少納言は「冬はつとめて(早朝)」という。女房たちが、寒い早朝に炭などをいそぎおこして、きびきびと動く様を、冬に「つきづきし」とした。ピーんと張り詰めて、緊張感や清浄感のようなものを感じる朝だ。草田男のこの句にも、清少納言流の、叩けばカーンという澄み切った音を出す、炭のような、固く、まごうことのなく、偽りのない冬の朝を感じるのである。そう藤堂明保がいうように中国語の「公」がカーンという澄み切った音であるように。「公」とは本来そういうもの。分かっているかな?政治家の皆さん。
11月1日   この道を行く人なしに秋の暮  はせを 
     (この道や行く人なしに秋の暮) ※其便で改作
   「この道をいく人なし」という孤独感。この孤独感と秋の暮れがぴたりと収まる。  秋の暮れのもの寂しさは、古来読まれてきた。「浦の苫屋の秋の夕暮れ」も「鴫立つ沢の秋の夕暮れ」も「真木たつ山の秋の夕暮れ」も、寂寥感と秋の夕暮れが一体となった世界だ。「十団子も小粒になりぬ秋の暮れ」許六の句もこれと同じ。事実上の辞世の句と言われている、芭蕉のこの句は、江戸蕉門は離反し、名古屋は分裂派閥争い、大坂も主流争い、故郷伊賀も「軽み」をめぐって停滞。蕉門が崩れていこうとしている中で芭蕉が抱いた孤独感や寂寥感が主題で、それが句全体に漂っている。我が晩年もこれに近い。この道を行く人なしにである。この秋もまた。
 これは、元禄7年9月23日、西暦1694年11月10日郷里の意専、土芳充てに京屋の飛脚に持たせて送った書簡の中にあった句、いずれも俳諧発句であるが、( )内の其便の方が人口に膾炙している。
10月8日   秋田刈る刈廬を作り我が居れば衣手寒く露ぞ置きにける
                       
読み人知らず
秋の田の仮庵の庵の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ
                天智天皇
   新暦で10月に入った。新暦10月1日は、旧暦8月17日。初秋である。神無月は冬の季語。記紀に寄れば、全国の神様が国譲りが行われた出雲、稲佐浜に集まり、神迎祭りを行うという。で、神無月。何と出雲には集まった神々の寄宿舎とされている十九舎まである。だから、出雲では神在月とか。が、これは、出雲の御師が広めた語源俗解。神無の無は「の」の意。「神の月」すなわち神祭りの月ということだろう。10月は祭りが多い。秋の収穫祭だったのだろう。で、この歌を再び取り上げた。
 天智天皇御製とされている、この歌の原歌は万葉集巻10にある。万葉集では読み人知らず。この歌がなぜに天智天皇御製とされているかは歴史・文学研究のテーマになり得る。仮庵は、刈った穂と掛けていて、旅先などで、また収穫期見張りや収穫物を保管する仮の小屋のこと。菅や茅で編んだだけの菰(むしろ)の屋根。その屋根から露がぽたぽた。私の袖は濡れてますという意。収穫期に現代と同じく収穫物ねらいの輩がいたことが窺い知れて面白い。原歌の方が真に迫る。
 
この歌は改作されて天智天皇御製として後撰和歌集に収録された。編まれたのは、平安時代中期。天智天皇の慈悲深さが読み取れてきます。当然、天智系が復権した白壁王こと光仁天皇(770年即位)以降の改作である。井沢元彦は万葉集を鎮魂の歌集と説く。巻1・2の作者はいわば当時の無実の犯罪者。万葉集は桓武天皇以降に世に出たのだろう
と推測する。
9月3日   突き抜けて 天上の紺 曼珠沙華  山口誓子
   夏のぎらぎらとして青空から、さわやかな秋の紺碧の空に、いつになったら変わるのでしょう。まだまだ続く夏の空は何となく重いですね。「突き抜けて」とは言い得て妙。秋の空は、まさしく「突き抜ける」ような透明性を有しています。その天上の紺と曼珠沙華の赤が冴え渡ります。曼珠沙華には白もありますから、青と白のコントラストかもしれません。山口誓子は、対比的な秋の色彩の美を描きました。
 九月になると我が町沼川の土手にも赤い曼珠沙華が咲き始めます。曼珠沙華は変な花でまず葉っぱがありません。そして別名がおぞましい。彼岸花はお彼岸の頃に咲きます。彼岸花はサンスクリット語で天界に咲く花だとか。死人花、幽霊花、地獄花とも。それらは彼岸花から派生した別名。毒花、痺れ花とも呼ばれています。これは、曼珠沙華はアルカロイド毒素を含んでいるからで、田んぼのあぜ道に植えられ、モグラやネズミから田を守りました。同時に球根にはデンプンが多く含まれていて、それは水にさらすとで毒が抜けるために、飢饉に備えた花だったとか。秋の到来を私は曼珠沙華の花で悟ります。
そうそう、葉っぱは花が枯れてから生えてくるのだとありました。これも妙です。※曼珠沙華=石蒜 和漢三才図会には「しびとばな」とある
   <お詫び>7月分はコピーをとらずに削除。復元できませんでした。 
8月1日  夏嵐 机上の白紙 飛び尽くす 正岡子規 
   エアコン設置が普通の今日、この句の情景は思いもつかないでしょう。暑い、暑いと窓を開けます。今は窓を閉じますが。夏嵐とは夏に吹く南からの風。初句切れの句です。夏の暑さに風は涼を運びますが、この風は木々の緑を揺るがして吹く風。強風です。その風にあおられて机上の白紙は飛び散ります。白紙かあ、です。何も書かれていない紙、子規の筆は止まったまま。そんな想像もできます。「夏嵐」に「飛び尽くす」。嵐が引き立ちます。このあたりは子規の作風の真骨頂でしょう。私事ですが、30代の後半に、はじめて役所勤めをした、その夏。役所のエアコンは故障で、庶務は文鎮を配ってくれました。窓を開けても書類が飛ばないようにです。この句を詠んで、往時の光景が浮かんできました。窓を開けるとやや涼やかな風とともに地上の焼き鳥屋から得も言われぬ香りが漂ってきて、もう仕事打ち切ろうになりました。 
6月1日   五月雨や滄海を衝く濁り水 与謝蕪村 
  長雨で水かさを増した濁流が河口で一挙に蒼海に突っ込んでいく。何というダイナミックな光景。蒼い海原に濁り水が突っ込んでいく。蒼と茶の濁りとの色彩も凄まじい。まさしく濁流滔々としている様で恐怖さえ感じる。蕪村の句には「五月雨や大河を前に家二軒」もある。いずれも大自然の前に人のか弱さを感じてしまう。が、写し取っているだけで感情語はない。子規は「五月雨をあつめて早し最上川」の芭蕉と蕪村の「五月雨や大河を前に家二軒」の句を比較して蕪村に軍配をあげたと、司馬遼太郎は「坂の上の雲」に書いている。私は、さらに迫力では、この句が上と思っている。
※6月 水無月の「無」は「の」の意。水の月で田に水を引く月。
5月4日  万緑の中や吾子の歯生え初むる 中村草田男 
  中学校国語科教科書にも掲載されている草田男の句。5月といえば若葉。野山は新緑に覆われて、四方緑色。そこに若葉と同じく初々しいわが子の歯の白が映えます。新緑に歯が生え始める。生命の息吹が感じられる句です。万緑に歯生え初むるが響き合った秀句です。 
4月2日  草の戸も住み替わる世ぞ雛の家 芭蕉 (奥の細道) 
   芭蕉が奥の細道に旅立つのは「弥生も末の七日」。元禄2年3月27日で太陽暦では1689年5月16日。現代の感覚では夏。が、春立てる霞の空は、4月の描写にふさわしく取り上げました。草の戸、雛の家と深川の芭蕉庵を形容しますが、これはポーズ。あの深川芭蕉庵の建つ位置は,今も昔も高級地。草の戸、雛の家。住み替わる、これらをつなげて芭蕉的世界を描いたのでしょう。「住み替わる」、3月は卒業式で子供たちは旅立ち、4月になって入学式で子供たち入れ換え。学校は住み替わります。先生方も人事異動で住み替わります。万物に静態はなく動態。月日は百代の過客です。旧暦3月の末、新暦5月。でも、この時期がピタリとする思い、この句を掲げました。わかる。そぞろ神のものにつきて心を狂わせ…。桜も散るに嘆きで、あちこち動きたくなる季節です。
3月12日   山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉 (野ざらし紀行)
   貞享元年8月、芭蕉は弟子の千里を連れて,初の俳諧紀行「野ざらし紀行」に出て、東海道を上ります。「野ざらしを心にかぜのしむ身哉」には、悲壮感が漂い覚悟の程が伝わってきます。この句は、同紀行、甲子吟行「京都再会」に収録されています。貞享2年3月(1685年4月)、京から大津に抜ける山中で詠まれたとされていますが、3月27日、熱田法持寺の句会で「なんとはなしに何やらゆかしすみれ草」と詠んでいます。??です。「山路来て」に改作とは言い切れません。その後に挿入されたのかもしれません。また、歌学には山とすみれの取り合わせはないと北村湖春は、これを批判しました。実際、和歌には山と菫を詠った歌はほぼありません。去来は去来抄でこれに反駁していますが、和歌のしきたりを破ったところに芭蕉の新しみや、その本髄、不易流行があったのだと思われます。「山路来て」の方がいいですね。どこにもあるような菫草。そこに芭蕉は心惹かれています。この句材も蕉風ならではですね。
2月1日  旧暦では新年 
あらたしき年のはじめの初春の今日降る雪のいやしけ。よごと    (折口信夫全集p307)  万葉集巻二十 4516 大伴家持 
  新暦で生活していると和歌や俳諧は季節感がずれてくる。明治5年突如として太政官布告によって、我が国はグリゴリオ暦に変換した。明治5年12月3日が新暦明治6年1月1日となった。この歌は万葉集の掉尾にしたためられた家持の歌。詠まれたのは天平宝字3年正月1日で西暦759年2月6日。2月の歌である。折口信夫全集第廿九巻雑纂編で博士が詳説されている。博士の口訳では「また廻り来て結構な此、年の最初であって、初春であるところの今日降る雪。其ではないが、いよいよ益,くり返すやうになれ。此奏壽の詞が。」ということになる。「しけ」は「ますます」で命令形。ますます降りしきる雪の如く、あとからあとから我が願う状態が、引き続いて起これ」。よごとは壽詞とされ、尊い御方の為に、忠勤を盡し奉ることを誓う詞としている。だから、いや頻け壽詞」とは、「何時々々までも、かく初春毎に、私どもが奉仕して、宮廷の御榮えを祝福し奉ることができるように」ということで、…我等も肖え奉つて、ますます息災に奉仕の誠を奉らんという意だという。気がつかなかった。「あらたしき年」も「年のはじめ」も同じ意で、繰り返しだ。この歌は「の」が歌の調べを整えていて、音律がいい。博士はあえていやしけに「。」を打っていた。そこに家持の願いを感じとられておられた。 
1月1日  何となく、今年はよいことあるごとし。
元日の朝、晴れて風無し。石川啄木
 
   正月の歌としてはふさわしくないだろう。この歌が収録されている悲しき玩具は、「息すれば胸の内にて鳴る音あり。凩よりさびしきその音!」で始まる。啄木の苦境が察せられよう。が、あえて。この歌の「は」の深さに浸ってみたい。「今年も」とでは余りに醸し出す世界が違う。昨年1年を省みる。コロナは収まらず。我が国の経済は苦境。我が国だけが賃金上昇を得られず、pppで台湾、韓国に抜かれ、円安物価高が追い打ちをかけた。安倍元首相の銃殺事件で反日の旧統一教会と政権党とのズブズブが明らかになった。そして、ロシアの侵略。背後に専制国家群があって、それらの国々が我が国周辺に存在する。で、増税で国防と進み始めた。兵器揃えたって国防はできない。人心こそ国防。ウクライナが教えてくれた。人は石垣人は城と歌いたい。己の昨年は、よい事が続いたか?
2024年こそは「今年も」と歌える年にしたい。
 
12月1日  いそがしく 時計の動く 師走哉  正岡子規 
  毎日が日曜日のような身には懐かしい現職時代。時計は定刻に刻まれているはずが、時計さえも忙しく感じるということだ。師走の、しかも年迫った時期、20日過ぎの気ぜわしさを読んだと解した。期日物の仕事は迫っている。正月に向けて家内外の整備・掃除、冬支度、新年に向けた衣装揃え。クリスマス、人寄せ。時間がほしい。平易な句。時計が忙しい訳がない。この時期の時に対する感じ方だ。子規の「白足袋の よごれ尽くせし 師走哉」と合わせ読むといい。「大晦日 定めなき世の 定めかな(西鶴) こちらは江戸時代。掛け取りとの真剣勝負の日。こなきゃいい日がやってくるというわけだ。朱鞘のそりを返して「春まで待てというのが分からぬか…」
 
11月1日   この道を行く人なしに秋の暮  はせを
 (この道や行く人なしに秋の暮) ※其便で改作
   「この道をいく人なし」という孤独感。この孤独感と秋の暮れがぴたりと収まる。秋の暮れのもの寂しさは、古来読み込まれてきた。「浦の苫屋の秋の夕暮れ」も「鴫立つ沢の秋の夕暮れ」も「真木たつ山の秋の夕暮れ」も、寂寥感と秋の夕暮れが一体となった世界を描いている。「十団子も小粒になりぬ秋の暮れ」許六の句も同じだ。事実上の辞世の句と言われている、この句は江戸蕉門は離反し、名古屋は分裂派閥争い、大坂も主流争い、故郷伊賀も「軽み」をめぐって停滞。蕉門が崩れていこうとしている中で芭蕉が抱いた孤独感や寂寥感が主題でそれが漂う句になっている。元禄7年9月23日、西暦1694年11月10日郷里の意専、土芳充てに京屋の飛脚に持たせて送った書簡の中にあった句である。いずれも俳諧発句であるが、( )内の其便の方が人口に膾炙している。
10月2日   日のくれと子供が言ひて秋の暮   高浜虚子
   日のくれと子供が言ったことで、日の暮れを知ったというたわいのない句です。しかしながら、この句は絶妙。「日のくれと子供が言いて」と「秋の暮れ」の間には、広くて深い区切れの世界があります。「日のくれ」と言うのは子供。「暮れ」を悟るのは、母でしょうか。父でしょうか。作者でしょうか。主客の転倒があります。秋の暮れはつるべ落とし。一気に暮れていきます。この句が語るように、知らぬ間に暮れていくことは度々経験していることです。また、秋の夕ぐれは寂寥感に包まれています。日本三夕は浦の苫屋ですし、寂しさですし、花も紅葉もない墨絵のような世界です。十団子も小粒。秋から支払いの大節気まで、つるべ落としのように速い日々が待っています。しかも、野分で散々。荒かりつる風のしわざとはおぼえね(枕草紙189段)と言わしめる被害をもたらせます。庶民にとって「心なき身にもあわれは知られけり」です。この区切れの世界を十分味わうといいでしょう。
9月1日    名月をとってくれろと泣く子かな   小林一茶
   小林一茶「おらが春」に掲載された一茶の名句。一茶を高く評価したのは正岡子規で、「主として滑稽、諷刺、慈愛の三点に在り」と一茶を評しています。
 この句、「泣く子かな」に一茶の子
(さと女)に寄せる慈愛が伝わってきます。57歳の一茶が、愛娘を背負い、さと女は背中で泣きじゃくるだけです。名月をとってくれろと解したのは一茶でしょう。旧暦8月15日は名月。くれろは方言で「くんろ」。一茶は、月をめで、さと女に語りかけますが、幼子に名月が分かるわけがありません。56歳で得たさと女は、この年に2歳で死亡。54歳で初めて得た千太郎も生後1ヵ月で失い、58歳のときは、3番目の子石太郎も失っています。
「泣く子かな」には、愛児に寄せた思いや、次々に子を失う一茶の慟哭も伝わってきます。「泣く子」は、子ではなく一茶自身だったのかもしれません。
 改めて、一茶を見いだした、子規の短歌・俳句革新運動の重みを感じます。
8月1日   閑かさや 岩にしみいる 蝉の声  松尾芭蕉 
   芭蕉「奥の細道」に収録の名句。今更ながらの句ですが、前2作と比せば、この句の意味や秀逸さが分かります。「山寺に石にしみつく蝉の声」(俳諧書留)、「寂しさや岩にしみこむ蝉の声」(初蝉)。俳句は17音。この17音で世界を描きます。この句では、イ段の調べで閑かさをより深めています。「し」で始まる上五。中七はいワ、に、し、み、い、と続きます。下五もセ、みとイ段で重ねて句調を整えています。晶子の「海恋し潮の遠鳴り…」も同じです。イ段の音は静寂さを醸し出します。上五は「閑かさや」の「や」は切れ字。感動を表します。立石寺の閑寂さを、語彙と調べで表しているのです。岩に巌を重ねて山とし松柏年旧り土石老いて苔むし岩上の院院扉を閉て物の音聞こえず…佳景寂寞としてこころすみゆくのみ覚ゆ、とあって、この句が続きます。ちなみに欧米では、蝉の鳴声に情緒は感じず雑音だそうで、この句の閑寂さは欧米人には理解しがたい日本人ものです。どうやら日本語の母音に秘密がありそうだとか。
7月3日  五匙なめて 童たのしも 夏氷 山口誓子 
  暑い。この暑さは尋常ではない。駄菓子屋の店先でかき氷。糖蜜をかけたものから、レモンやイチゴ、糖蜜にアズキを載せた高値のアズキ氷。お小遣いを握りしめて駄菓子屋に行き、氷を削ってもらって、それらをかけた。懐かしい。先般、京都御所へ行ったが、中立売御門を出て烏丸通りを渡って奥まったところに虎屋菓寮一条店があって、かき氷もメニューにしていた。だが、宇治金時は1430円。小サイズでも1100円。テイクアウトですら770円。童ではたのしめない。実際、虎屋菓寮の店内には子供はいなかった。この句は誓子の「凍港」(1932年)に収録された句で、それだけに夏氷には駄菓子屋に遊ぶ子供たちのイメージが重なっている。「たのしも」の「も」は詠嘆の助詞。夏氷は明治の頃から季語になったらしい。それにしても暑い。冷蔵庫の氷たのしもでいい 
6月2日  五月雨や 大河を前に 家二軒   与謝蕪村 
   蕪村はやはり優れている。江戸俳諧の中興の祖と言われているが、彼の評価は正岡子規を待たなければならなかった。蕉風に近いが、写実であり絵画的である。水かさを増していく大河へのおののき。それは芭蕉の「五月雨を集めてはやし最上川」に通じる。水かさを増していく大河。その前に小さな家が二軒。河が決壊したらひとたまりもないであろう。蕪村が詠んだ「五月雨」の句には「五月雨や滄海(あおうみ)を衝(つく)濁水(にごりみず)」もある。長雨で水かさを増した濁流が河口で一挙に蒼海に突っ込んでいく。そのダイナミックな光景。この句と併せ読めば、ますます家二軒の家族の心細さ、はかなさ、人間の所行の小ささが際立ってくる。堤防決壊、被害甚大。そんな今年の梅雨にならなければいいが。
5月1日  目には青葉 山ほとぎす 初鰹   山口素堂 
   4月に買い始めて全巻読了してしまいそうな高田郁の「みをつくし料理帖」第7巻夏天の虹哀し柚べしに初鰹が出てくる。まな板に小判1枚初鰹(其角)。庶民には高値で手が出ない。売れ残りの初がつを、魚屋に拝み倒され3分でつる屋の種一は買う。それを又次が超薄切りにして無償で客に振る舞う一節。江戸っ子は見栄っ張り。初がつを食した客は感激の極まりだった。戻り鰹だってうまいのに、江戸っ子は猫またぎ扱いで手も出さない。それを描いたのが第1巻のはてなの飯。おもしろい。初鰹は1匹40万円位する場合もあって、卯月10日でも3分。8万円くらいか。初物を食す。それが粋。庶民はじっと値が下がるのを待つ。青葉、ほととぎすの時期の「初がつを」は、もう皐月。青葉の時期の初がつをは初ものからずっと下った季節。庶民がやっと食べられる季節になったということ。この句、目には、で始まるが、耳には、口には、が伏せられている。季語を重ねて、この季節を描いている。素堂は芭蕉と同門。親交があった。
4月3日  春の海 ひねもすのたり のたりかな  与謝蕪村 
   春のうららの隅田川♪♪と口ずさみたくなるような蕪村の句です。海は一日中「のたりのたり」とした穏やかさです。ぽかぽかした晴れた春の一日が浮かんできます。晩春でしょう。春の海を「のたりのたり」という擬態語で表現した蕪村ならではの秀逸な写実の一句です。ひねもすは終日、かなは切れ字で感動を表しています。
3月1日   願わくば 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃 西行法師
   この如月は陰暦。春分を含む月で、太陽暦2月下旬から4月上旬。3月ですね。花の下とは、山桜の下。如月の望月は2月15日。お釈迦様入滅の日で、この日には涅槃会が開かれます。2022年では3月17日。まだソメイヨシノはぼちぼちで蕾です。この歌の望月の頃とは新暦3月後半から4月上旬の間でしょう。花は山桜。満開の山桜の下で死にたいということか。西行は出家の身。お釈迦様と同じ日に死するなら本望。「願わくば」に、その思いが込められています。西行が身罷ったのはお釈迦様入滅の日(涅槃)の翌日、旧暦2月16日。何という往生。享年73歳。文治6年、1190年、鎌倉幕府開闢して5年でした。
2月1日   いつしかに 失せゆく針の 供養かな 松本たかし
   針供養は多くは2月8日。従って季語。2月8日は事八日とも言われ、お世話になった道具を片付け、感謝する風習があり、針供養では、針を豆腐などに刺して供養します。「いつしかに失せゆく針」、私は妙にこの針に同化します。さびたり曲がったり使えなくなった針を供養するのですが、供養される針の裏側に供養もされずに失せていく無数の針があります。私もまたその無数の針の中の一針です。松本たかしは高浜虚子に師事した俳人。能楽師の家に生まれましたが、病のために能楽師の道を断念し、俳句の道に入りました。何となく、その挫折感のようなものが、この写生句に漂ってきます。打てども打てども、ぴくりとしないさび付いた私の釘のようなものです。
1月3日   何となく 今年はよいこと あるごとし
 元日の朝 晴れて風なし  
石川啄木 
 
    啄木の「悲しき玩具」に収録されていた歌。「悲しき玩具」は啄木が亡くなる4~5日前にノートに書いてあった200首をそのままに出版したもの。啄木は床に伏したままだったとか。「今年は」の「は」に啄木の境遇や心境が込められています。新年にふさわしい歌とは言えませんが、素直に読んで、元旦の心境に被せてみましょう。
令和3年   
12月1日  大晦日 定めなき世の 定めかな  西鶴 
    江戸時代の大晦日。世間胸算用に西鶴はその悲哀を描いているし、西鶴諸国咄「大晦は合わぬ算用」で、笑ってしまうような大晦日の武士の意地を描いている。この大晦日は、信用商いの江戸期にあっては決算期。願わくば来ないでほしいと願っても毎年やってきてしまう大晦日。払わなければならないのである。「春まで待てといふに是非に待てぬか」と朱鞘のそりを返して米屋の若い者をにらみつけるようなやりとりがおこる。節季商売と言った。これを改め現金掛け値無しを始めたのが越後屋三井八郎右衛門。現三越である。現在は、現金、クレジット払いで大晦日に借金取りが押し寄せることはないが、年神様や貧乏神はやってくる。春まで待てと言いたいが、寄る年波、やってくる神はやってくる。
11月7日   芭蕉翁回郷 木からしの 吹き行くうしろ 姿かな 服部嵐雪  
  「旅人と我が名呼ばれん初時雨」 芭蕉 この句を詠んで旅発っていく芭蕉の後ろ姿を見て詠んだのが嵐雪のこの句とか。とぼとばと旅発っていく芭蕉の後ろ姿が寂しそうです。嵐雪は宝井其角と並ぶ芭蕉門下の高弟。芭蕉の「旅人…」の句は笈の小文の冒頭にあり「神無月の初、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して」とあって付け句は「又山茶花を宿宿にして」です。旧暦神無月は新暦では11月。木枯らしは冬の季語。風葉の行末なき心地は、この時期の感覚とぴたりと合います。でも、芭蕉のこの句はポーズ。笈の小文の頃の芭蕉は十分有名で野ざらし紀行の頃のような悲壮感はなかったはずです。 
10月3日  十団子も 小粒になりぬ 秋の風  森川許六
   十団子は岡部と丸子宿の間にある難所宇津ノ谷峠で売られていた団子。芭蕉もこの句「しほり」ありと誉めたと伝えられています。団子が小粒になったという、暮らし向きのわびしさに秋の風がフィットします。スーパーでこの中身少なくなったなあ、はよくあること。秋というより冬ですね。春では全然合いません。宇津ノ谷峠に行った際、秀吉の羽織の羽織屋でお守りの十団子が売っていて、買ってきて玄関に吊したことがあったが、もう売るのを止めたとか。羽織屋にも秋の風が吹いたのでしょう 
9月1日  秋来ぬと目にはさやかにみえねども風の音にぞおどろかれぬる  藤原敏行 
  立秋の頃詠んだ歌と伝えられていますが、近年のこの猛暑。もう9月、秋ですよ。どこにも秋の気配はありません。風さえ暑く熱き風におどろかれぬる、です。それでも、曼珠沙華の花を見つけました。確実に秋は近づいています。
 
8月3日   朝顔につるべとられてもらい水  加賀千代女 
   子規が酷評する句です。「もらいみず」とか「つるべとられて」が俗すぎて俳句と呼ぶべきでないとしています。しかしながら人口に膾炙している名句です。私も子規とは別の意味で好きになれません。つるべに巻き付いた蔓をはずすのは忍びなく隣に水をもらいに行ったということですが、そこに千代女のポーズを感じすぎてしまうのです。加賀千代女は加賀国松任(白山市)の表具師の家に生まれながら俳諧をたしなみ16歳頃には女流俳人として頭角を表したと伝えられています。52歳で剃髪して素園。35歳の時にこの句は「朝顔や」に改作されています。朝顔は秋の季語です。
7月1日 五月雨をあつめて早し最上川  芭蕉  
   ??なぜ、7月に五月雨?五月雨とは梅雨時の長雨。芭蕉が大石田の高野一栄宅でいわゆる「さみだれ歌仙」を巻いたのは、元禄2年5月29日から30日で、西洋暦では7月15日、16日です。そこで詠まれた発句が「五月雨をあつめて涼し最上川」。その年の東北は猛暑でうだるような暑さだったとか。最上川の川風は涼やかに感じられたのでしょう。その後、6月3日(7月19日)に芭蕉は最上川を下ります。奥の細道には「最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。……。白糸の滝は青葉の隙々に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし」とあります。
 
船上の人となり最上川の水かさと流れの速さにおののいたのです。テーマを変えた改作で秀逸です。
6月4日  万緑の中や吾子の歯生えそむる 中村草田男  
  昭和14年、草田男が詠んだこの句が名句として広まり、「万緑」は夏の季語として定着したとか。初夏のみずみすしい緑より真夏の強い緑などという解説がありましたが、「万緑」「吾子の歯」「生え初(そ)むる」で、この句の世界が表現されているとすれば、初夏のみずみずしい生命力に富んだ季節がふさわしいでしょう。あたり一面の緑に小さな映えだしたばかりの白い歯。その色彩的対照も見事です。万緑を詩歌に使ったのは、中国の王安石。「万緑叢中紅一点」(詠柘瑠詩)で、こちらは男の中に女性が1人のたとえ。紅一点です。 
5月1日  越後屋にきぬさくおとや衣替え 其角  
   衣替えは旧暦4月1日と10月1日に行われるのが慣習だったようです。4月1日はわたぬきとも読みます。旧暦4月1日は新暦では5月12日。初夏です。越後屋は我が国で最初にデパート商法を始めた現在の三越で、現日本銀行辺りの江戸本町1丁目の借店で三井八郎右衛門高利が呉服店越後屋を創業しました。現金・掛け値なし、切り売りという画期的な商法を始めて庶民に好評を博し、現在の三越日本橋店辺り、江戸駿河町に移転し店舗を拡大しました。越後屋から夏の袷を仕立てる絹を裂く音が勢いよく聞こえてきます。切り売りならではです。宝井其角は蕉門10傑の1人。江戸を題材に洒落た句が多いのですが、許六は「俳諧問答」でそれを批判。「今風」の見解が違っていました。ちなみに、旧暦4月1日は新暦5月12日でこの日から夏。今年の八十八夜は5月1日。旧暦では3月20日。まだ少し春です。5月は春と夏が混じっています。 
4月4日  1.はるのうららの 隅田川 のぼりくだりの 船人が 櫂のしずくも 花と散る ながめを 何にたとうべき     滝廉太郎作曲 武島羽衣作詞 
「花」の歌詞はこちら
   ご存知「花」。隅田区民の愛唱歌に指定されている。この曲は明治33年(1900年)に出版された歌曲集四季の中の第1番。四季は第2曲が納涼、第3曲が月、第4曲が雪。月と雪に合わせるために「花盛り」だったのを「花」に改めたとか。しかしながら、今となっては、2曲以下はすっかり忘れられて「花」のみが愛唱されている。
 隅田川とあるから隅田区の愛唱歌であろう。だが、やはりスミダガワでなくては収まりが悪い。この歌が軽やかで春の浮き立つような気分と合うのは、七五調だからである。カノガワでは4音で収まらない。作詞は武島羽衣。東京帝国大学、大学院で学んだ国文学者。東京音楽大学教授。この時助教授だった滝廉太郎と知り合っている。1番の歌詞は「春の日にうららにさして行く船は棹のしずくもはなぞちりける」(源氏物語胡蝶の巻)3番の歌詞は「春宵一刻値千金」(蘇軾「春夜」)に拠っているそうだ。
 
3月1日  (再掲磐ばしる垂水の上のさ蕨の萌えいずる春になりにけるかも                万葉集巻八 志貴皇子 
  万葉集の中でも私が好きな歌です。磐の間を雪解け水が激しく落ちていきます。きっと、この滝は垂直に落ちる滝ではなく、布引きの滝でしょう。岩の間を流れ落ちていくような傾斜のある滝です。そんな光景が浮かびます。まだ雪が残っているような磐の上に蕨が見えます。さは早で若々しいということ。描かれた早春の光景に「早蕨」がぴたりとします。
 天智天皇の息子大友皇子は壬申の乱に敗れ自害、川島皇子は早世。唯一残った天智系の血筋を、志貴皇子がつなぎました。天智天皇の子であったため皇位には無縁。和歌等文化に身を置いたために生き延びて天智系につなげたのかもしれません。天武系は皇統が途絶え、49代白壁王(光仁天皇)によって天智系が復活。平安京の桓武天皇へとつながっていきます。
 
 2月1日 去年今年 貫く棒の ごときもの  高浜虚子 
  こぞ ことし つらぬくぼうの ごときもの
 
   2月2日は124年ぶりの節分で、3日は立春。12日は春節で旧暦の元旦。今月は天皇陛下誕生日月。私も誕生月。あっというまに過ぎた1月でしたが、変わったことは何もありません。元旦初日の出と言っても旧暦では11月18日。明治になってグレゴリオ暦を採用したから、元旦が元旦であったに過ぎません。
 この句を詠んだのは高浜虚子。正岡子規に見いだされた俳人で、虚子も子規の命名とか。子規の後継で「ほととぎす」を引き継ぎました。漱石も虚子に見いだされた一人。川端康成は、この句に感じ入ったとか。去年、今年などは誰かが決めたもので、私自身に去年今年があるわけではありません。「新年おめでとう」めでたさも中くらいくらい。昨日またかくてありけり 今日もまたかくてありなむ で棒のごとき。君は、何を貫いて生きていますか?そんなふうに問われているように感じてきます。
 
      1月1日 再掲)新たしき年の初めの
     初春のけふふる雪のいやしけ吉事
 
   大伴家持 万葉集巻20 4516 
   令和2年元旦の歌と同じこの歌を再掲しました。新しきはあらたしきと読みます。新しい年になった今日、とは言っても西暦2月2日です。雪が降っています。新年の雪は縁起がいい。初春の今日ふる雪のように良いこともどんどん積もれ、くらいの意味でしょう。昨年はコロナ渦の1年。今年は家持の願いどおりの年にしたい。この歌は、万葉集最後の歌であり家持最後の歌。というのもこれ以降、歌わぬ家持になりました。橘奈良麻呂の乱で左遷されて因幡(現鳥取県)で詠んだ歌です。家持はその後復権し、どんどん出世しますが、心境は「何となく今年はよいことあるごとし 元日の朝晴れて風なし」と詠んだ啄木と似ていたと思われます。令和は3年になりました。令和は梅花の宴で詠まれた32首の序文からとったもの。家持の父、旅人は落梅を詠んでいます。はかなさが漂うのは誣告罪で自死に追い込まれた長屋王を偲んでいるのでしょう。
 
令和2年   
12月7日 冬の水一枝の影も欺かず  中村草田男  
  冬を詠んだ和歌俳句の中で私が好きな俳句の一つ。冬の水を湛えている水面に映った一枝。水面(みずも)は鏡のようにその輪郭を映し出している。張り詰めた冬の空気が伝わってくる。
 清少納言は「冬はつとめて(早朝)」とする。女房たちが、寒い早朝に炭などをいそぎおこして、きびきびと動く様をつきづきしとしたが、この様はピーんと張り詰めて、緊張感や清浄感のようなものを感じる冬の朝に通じる。
 草田男のこの句にも、清少納言が「わろし」とする陽高くなって緩みきった冬ではなく、叩けばカーンという澄み切った音を出す炭のような、固く、まごうことのなく、偽りのない冬の朝を感じるのである。そう藤堂明保がいうように中国語の「公」がカーンという澄み切った音であるようにである。「公」とは本来そういうものだ。
 12月15日は旧暦11月1日。まさしく暦の上で冬
  
11月4日 見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ                          藤原定家 
日本三夕の一つ。見渡せば華やかな「花」「紅葉」等の色物はなく、粗末なぼろ屋のみ。寂しい秋の夕暮れです。浦、源氏物語等の須磨の浦がイメージできるでしょうが、そんなものはないといううら寂しい情景です。佗(わび)茶はこの歌のイメージだと千利休の師匠竹野紹鴎が語っていると伝えられています。「わび」「さび」です。
 「十団子も小粒になりぬ秋の風」(許六)この句も小粒でなければ寂しい秋に通じません。秋は夕暮れです。「烏の寝どころへ行くとて三つ四つ、二つ三つ、とびいそぐさへあはれなり」(枕草子第1段)。この数字の並べ方は実に美しい調べを奏でていますが、秋はやはり夕暮れで曙ではないんですね。寝どころへ行く。陽が沈み、1日が終わる。秋はそんなイメージです。
10月10日  万葉集巻10 2174
秋田刈る刈廬を作り我が居れば衣手寒く露ぞ置きにける
                       
読み人知らず
秋の田の仮庵の庵の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ
                       天智天皇
 
   天智天皇御製とされているこの歌の原歌が万葉集巻10にある。読み人知らずだ。この歌がなぜに天智天皇御製とされているかは歴史・文学研究のテーマになり得よう。仮庵は、刈った穂と掛けている。旅先などで、また収穫期見張りや収穫物を保管する仮の小屋のこと。菅や茅で編んだだけの菰(むしろ)の屋根。その屋根から露がぽたぽた。私の袖は濡れてますという意。収穫期に現代と同じく収穫物ねらいの輩がいたことが窺い知れて面白い。原歌の方が真に迫る。この歌は改作されて天智天皇御製として後撰和歌集に収録。平安時代中期で、当然、天智系が復権して以降の歌である。井沢元彦は万葉集を鎮魂の歌集と説く。巻1・2の作者はいわば当時の無実の犯罪者。万葉集は桓武天皇以降に世に出たのだろう  
 9月4日 おくの細道 荒海や佐渡によこたふ天の河 芭蕉    
   の句は元禄2年7月4日、西暦8月12日、出雲崎で詠んだとされているが、発句として披露されたのは7月7日、直江津での句会の時。七夕を意識したのであろうが、新暦では8月七夕も過ぎている。平塚の七夕飾りは仙台に運ばれて8月七夕を賑わす。
 この句は虚構の句。曾良同行日記では新潟を発つときは快晴、出雲崎着は午後4時頃で強い雨。以降天候悪しだ。しかもこの時期、天の川は南の空から天頂にかけてで佐渡とは反対方角。スケールの大きい風景描写の中に、年に一度の橋をかけるという天の河伝承に佐渡島に流された、承久の乱に破れた順徳上皇、日蓮聖人、将軍の怒りをかった世阿弥等、流人達に想いを馳せた芭蕉の心の中の風景だったのであろう。
 
 
7月2日 (再掲)五月雨をあつめて早し最上川 はせを   
   芭蕉が大石田の高野一栄宅で、いわゆるさみだれ歌仙を巻いたのは旧暦元禄2年5月29日。まさしく五月雨。西暦1689年7月15日のことです。
その時の発句は
   五月雨をあつめて涼し最上川
 
「最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。……。白糸の滝は青葉の隙々に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし 。とあります。
 
船上の人となり最上川の水かさと流れの速さにおののいたのでしょう。「あつめて涼し」を「舟あやうし」に改めました。余程怖かったのでしょう。
芭蕉の改作は珍しいことではありません。
=立石寺= 
閑かさや岩にしみいる蝉の聲 も初句は「山寺や石にしみつく蝉の聲」
「寂しさや石にしみこむ蝉の聲」「寂しさの岩にしみこむ蝉の聲」を経ています。佳景寂寞として心すみゆくのみ覚ゆ はイ段のしらべ「いわにしみいる」の方がいいですね。
(これは7月2日アップ版を筆者が改作)
  
 
6月1日 (去来抄)行く春を近江の人と惜しみけり はせを    
   去来抄に収録されているこの句について、去来はこんな逸話を紹介しています。先師曰、尚白が難に近江は丹波にも行春ハ行歳にも有るべしといへり。要するに近江じゃなく丹波でもいいし行く春は行く歳でもいいんじゃないのという尚白の非難についてどう思うかと尋ねたのでした。去来は琵琶湖の水がぼんやりと霞んで春を惜しむところによりどころがると答えると、芭蕉は「しかり。古人もこの国に春を愛すること、をさをさ都に劣ららざるものを」と述べたと紹介しています。琵琶湖の湖水朦朧とする情景、人々の情。芭蕉にとっては「行く春」で「近江の人」でなければならなかったのでした。
 行く春は奥の細道、旅立ちでの表八句でも詠んでいます。
「行く春や鳥なき魚の目は涙」。
 和暦元禄2年3月27日は閏月を挟んで新暦5月16日、この句は立夏を過ぎた4月6日、新暦で5月14日ですが、行く春は単に暦上のことではなく、「行く春」と読むと深みが増してきます。この時期富士もまた朦朧としています。なお、猿蓑では「行く春を近江の人と惜しみける」になっています。この方が情感が強く伝わってきます。
 
 
5月2日 草の戸も住み替わる代ぞ雛の家   はせを   
  有名な芭蕉「奥の細道」旅立ちの句です。芭蕉が深川の芭蕉庵を発ったのは元禄2年弥生も末の七日。これは西暦1689年5月16日。初夏です。草の戸とか雛の家とありますが、芭蕉庵があった地は、小名木川と大川(隅田川)に流れ込む景勝の地。今も昔も一等地。北斎富嶽百景の一つ、富士がその下に描かれたアーチ状の橋「深川萬年橋」付近にあったのです。江上の破屋とも言っていますが、芭蕉のポーズです。この破屋を人に譲り芭蕉はパトロン杉風の別墅(別荘)に移るのです。いやはや優雅です。 行く春や鳥なき魚の目は涙。   
 4月1日 春風や闘志いだきて丘に立つ  高浜虚子    
    はるかぜと詠むかしゅうぷうと詠むか分かれるそうです。はるかぜと詠むとなんとなく柔らかで温かく春の風らしく感じます。闘志という中の句の強く固い感じとぶつかります。私は、入学や新学期の頃の感じは、はるかぜかなと思いますが、句としてはしゅんぷうという激しさ、闘志という勇ましさやごわごわした感じ、それが丘に立つと響き合い句としては整合性が出てきます。中学校の教科書では「はるかぜ」と詠ませていました。しゅんぷう等と詠むと春風亭昇太を連想してしまいます(笑)ね。昨今は、「春風やコロナが舞うかと闘志萎え」です。
 
3月8日 こちふかは匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春名わすれそ        拾遺集 菅原道真   
   昨年2月に掲載した和歌です。昨年は福岡の太宰府天満宮へ行って来た直後。太宰府の梅を実際に見てきて掲載しました。今年は歴史です。道真は祟りの人。藤原氏によってえん罪で左遷され憤死する。その怨念はすさまじく怨霊となって、首謀者たちは、狂死、事故死、雷直撃、さらには都に流行病、天皇まで災いが及ぶようになって、怨霊を鎮めるために建立されたのが北野天満宮。道真は日本三大怨霊の1人と言われています。井沢元彦は「祟りと鎮魂」「穢れ」を日本史を解くキーにしていますが、納得します。この歌の「東風ふかは」「あるじなしとて」がポイントでしょう。季節は梅が終わり桜の季節に入りますが、桜が代表的な春の花形になっていくのは、ソメイヨシノの江戸時代以降です。   
     
2月14日  石ばしる垂水の上のさ蕨の萌えいずる春になりにけるかも                   万葉集巻八 志貴皇子  
    万葉集の中でも私が好きな歌です。石は磐とした方が合いますね。石の間を雪解け水が激しく落ちていきます。きっと垂水すなわち滝は垂直に落ちるいわゆる滝ではないでしょう。岩の間を流れ落ちていくような傾斜のある滝です。そんな光景が浮かびます。まだ雪が残っているような石の上に蕨が見えます。「さ」は早で若々しいということ。描かれた早春の光景に「早蕨」がぴたりとします。以上はTakuの解釈。
 志貴皇子は、天智天皇の息子、大友皇子が壬申の乱に敗れ自害、川島皇子は早世。唯一残った天智系の血筋を彼はつなぎました。天智天皇の子であったため皇位には無縁。和歌等文化に身を置いたために天智系につなげたのかもしれません。天武系は皇統から途絶え49代白壁王(光仁天皇)によって天智系が復活。平安京の桓武天皇へとつながっていきます。
 
1月30日  我寐たを 首上て見る 寒さかな 小西来山   
   寒い、寒い季節に入ってきました。1月30日が旧暦1月1日。厳寒です。その寒さ、語法的にやや無理があるかなと思いますが、季節を体感できる句です。寒い寒い、ふとんかかっているかな?首を上げてみる。布団から足が出ているかもしれませんね。おー寒です。自分を客観視しているところが妙味ですね。
 小西来山は承応3年(1654年)、和泉(大坂)生まれ。談林俳諧の西山宗因の門下生になり、18歳で宗匠になりますが、のちに蕉風的な句風に転じていきます。9歳で父を亡くし、母に育てられ、仙台には15年ほど住んで、全国を行脚して、やがて故郷に戻って没しました。享保元年10月のことです。63歳。奇人とも伝えられ近世畸人傳に名がみえます。この句に何となく孤愁が漂うと感じるのは私だけでしょうか。
  辞世の句は「よしやよし 身は夕暮れの もどり馬」
 
 
 1月1日 新たしき年の初めの初春のけふふる雪のいやしけ吉事
大伴家持 万葉集巻20 4516 
 
  あらたしきと読みます。あたらしい年になった今日、とは言っても西暦2月6日立春です。雪が降っています。新年の雪は縁起がいい。初春の今日ふる雪のように良いこともどんどん積もれ、くらいの意味でしょう。万葉集最後の歌であり家持最後の歌。というのもこれ以降歌わぬ家持になりました。橘奈良麻呂の乱で左遷されて因幡(現鳥取県)で詠んだ歌です。家持はその後復権し、どんどん出世しますが、心境は「何となく今年はいことあるごとし 元日の朝晴れて風なし」と詠んだ啄木と似ていたと思われます。今年は令和2年。令和は梅花の宴で詠まれた32首の序文からとったもの。家持の父、旅人は落梅を詠んでいます。はかなさが漂うのは誣告罪で自死に追い込まれた長屋王を偲んだとか。   
 令和元年
   12月12日
 冬の水一枝の影も欺かず  中村草田男
  ふゆのみず いっしのかげも あざむかず 
 
  かつて教科書にも載っていた草田男の句である。この句と枕草子第一段「冬はつとめて」をよく並べる。清少納言が冬に早朝を「をかし」としているのは、凛とした厳寒の早朝の空気ときびきびとした女房達の動きがよく似合うと見たからであろう。草田男のこの句も同じ。「欺かず」に表現された冬の水面に、もう葉を落とした枝先の細枝が凛として、そのままを映している。風もない早朝である。「急ぎもてゆく」女房たちの姿もピーンと凍てついた水面に微動だにしない細枝も同じである。   
11月12日   この道を行く人なしに秋の暮  はせを

 (この道や行く人なしに秋の暮) ※其便で改作
 
    「この道をいく人なし」という孤独感。この孤独感と秋の暮れがぴたりと収まる。秋の暮れのもの寂しさは、古来読み込まれてきた。浦の苫屋の秋の夕暮れも鴫立つ沢の秋の夕暮れも真木たつ山の秋の夕暮れも、寂寥感と秋の夕暮れが一体となった世界を描いている。前回の「十団子も小粒になりぬ秋の暮れ」許六の句も同じだ。事実上の辞世の句と言われている、この句は江戸蕉門は離反し、名古屋は分裂派閥争い、大坂も主流争い、故郷伊賀も「軽み」をめぐって停滞。蕉門が崩れていこうとしている中で芭蕉が抱いた孤独感や寂寥感が主題でそれが漂う句になっている。元禄7年9月23日、西暦1694年11月10日郷里の意専、土芳充てに京屋の飛脚に持たせて送った書簡の中にあった句である。いずれも俳諧発句であるが、( )内の其便の方が人口に膾炙している。  
 10月18日 秋は夕暮。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寢どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛びいそぐさえあはれなり。まいて雁などのつらねたるがいちちひさく見ゆるは、いとおかし。日入りはてて、風の音、蟲の音など、はたいふべきにあらず。
底本 三巻本系統 陽明文庫蔵三冊本 枕冊子第一段 田中重太郎校註 日本古典全書 
下線は管理人
 
 
  「十団子も小粒になりぬ秋の暮れ」許六のこの句も秋の暮れでなくてはおさまりが悪い。秋の夕暮れにはどことなく物寂しさが漂う。小粒が生きている。枕冊子の第1段、秋の項で、やはり清少納言と感心するのは、「三つ四つ、二つ三つ」というリズミカルな数字の並べ方だ。石がけに子ども7人腰かけてふぐをつりおり夕焼け小焼け 白秋のこの歌の7もいい。情景にぴたりとする数字があるものである。雨ばかりの10月。季節は間違いなく神無月から霜月に向かっている。   
9月13日   野分のまたのひこそ、いみじうあはれにをかしけれ。立蔀、透垣などの乱れたるに、前栽どもいと心苦しげなり。大きなる木どもも倒れ、枝など吹きおられたるが、萩、女郎花などの上によころばひ伏せる、いと思はずなり。格子の壺などに、木の葉をことさらにしたらむやうにこまごまと吹き入れたるこそ、荒かりつる風のしわざとはおぼえね。…                                             枕草紙二百段  
   この段の枕草紙の最初の一行を千葉県の人たちや電車ストップで混乱した街々の人にぶつけたら物が飛んできそうです。野分は台風。台風はtyphoonにタイフウを充てたことばで、古くは「野分」と呼んでいました。その野分の翌日。立蔀、透垣、前裁の乱れ、大木の倒壊等々は今も昔から変わらぬこと、しかし最近の台風は度が過ぎていますね。清少納言は野分の翌日にまじめで美しい人が髪を乱して現れたり、「むべ山風」等と言ったりしている様を描いていますが、この風情、男心がくすぐられますね。17、18歳頃で大人には見えないような娘も乱れて現れるとやはりなまめかしい。これまた同感。  
 8月13日 閑かさや岩にしみいる蝉の声 芭蕉  
   この句をカナダ人は理解できないということを言語学の冊子で読んだ記憶があります。カナダ人ならずとも、「閑か」と「蝉の鳴き声」は論理的につながりません。しかしながら、日本人は納得です。立石寺の深閑とした雰囲気、苔むした巌。佳景寂寞として、心澄みゆくのみ覚ゆ。「岩に巌を重ねて山として、松柏とし旧り 土石老いてこけなめらかに岩上の院々…」 「閑かさや岩に…」とつながっていく情緒の中に蝉の鳴き声を置きます。欧米人ではこの情緒と蝉の鳴き声はつながらないのだそうで、蝉の鳴き声はmake noiseで通じるといいいますから騒音としか聞こえないようです。この句はイ段音の多用と連続が静寂さを音韻上からも醸し出しています。この蝉は何か、アブラゼミか、ミーミーゼミか学会でも争点になっているそうです。我が家の周りはアブラゼミが騒いでいますが。
    
 
     
7月13日  荒海や佐渡によこたふ天の川 芭蕉  
  奥の細道の代表的な名句ですが、奥の細道には旧暦6月から7月にかけての16日間の記述がありません。この間の詳細は曾良の随行日記で知ることができます。芭蕉一行は、村上に一泊して、水路等で湊町新潟へ到着。そこから海岸線ではなく、内陸路をとって越後の国弥彦神社に参拝。そうして日本海に面する出雲崎に到着したのが旧暦7月4日。ここで詠んだのが、この句ですが、出雲崎から佐渡に天の川がかかることはなく、この日は雨だったとか。しかも、夏から秋にかけての日本海は穏やかで「荒海」ではないと言われています。ですから、この句は写生した句ではなく、全くの芭蕉の創作句です。「海は荒海 向こうは佐渡よ」という文部省唱歌がありましたが、江戸時代も芭蕉のイメージも同じだったということでしょう。物知りが、芭蕉の残した「銀河の序」を読むといいと教えてくれました。流人の島佐渡すなわち荒海が似合うということですね。荒海に、佐渡に横とう天の川はピタリ。現役時代、教室で教えました。   
6月28日  五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉  
   本日は6月28日。旧暦5月26日にあたる。この句は、旧暦5月27日、山形県大石田の俳人高野一栄宅で催された句会での連歌の発句(ほっく)として芭蕉が詠まれたのだそうです
 
「最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし 。とあります。

はじめ、芭蕉は「あつめて涼し」と詠んだそうですけれど、実際、船上の人になって、その水かさと流れの速さに「こわさ」を感じたが故に「あつめて早し」としたのでしょう。「舟あやうし」に心情がこもっています。名句です。
 
 
     
   皇紀2679年5月1日天皇陛下御即位奉祝記念 神田祭  
 5月11日   神幸祭 附け祭り
日本三大祭り、江戸三大祭りとも言われている、神田祭が令和元年5月9日から始まった。江戸時代は家康が戦勝祈願し代々の将軍が上覧したために、御用祭りとも天下祭りとも言われている。偶然にも2年に一度の本祭りと令和元年が重なった。写真は11日の神幸祭日本橋三越前の様子。ここで、神輿に附け祭りが合流する。
 8時に神田明神を発った衣冠装束に身をまとった人たちと大黒様の一之宮、恵比寿様の二ノ宮、平将門の三之宮に諫鼓山車、獅子頭山車等が続いて、将門塚に11時。ここで奉幣の儀が行われる。将門は京でさらし首になったが、その首がこの地芝崎村(当時)に飛来したとか。鎮魂の祭りでもある。
 三社祭りは下町庶民の祭り。17日が見所があるが、18日は神輿渡御。町内の本神輿と子供神輿が浅草寺正殿前でお祓いを受ける。
 
     
5月 3日  初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香
初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす
  
万葉集巻五 梅花歌三十二首并せて序
 
令和の時代が始まりました。この巻は太宰府中心。序文は「天平2年正月13日に、師の老の宅に萃りて宴会を申く」で始まり上の文言につながります。令月。よい月、めでたい月と解説されていますが、令の字の由来は神に跪く。さて議論百出でしょう。この月は現在の2月。あー、新陛下は2月23日にお生まれ。富士山の日でしたね。元号では初めての万葉集出典とか。作は大伴旅人。大の酒好き。酒壺になりたいと言ったとか。いいね   
平成31年2月  こちふかは匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春名わすれそ  
2月12日太宰府天満宮に参拝してきました。如月は春。春といえば梅。
 こちふかば、匂ひおこせよ の歌は菅原道真の歌。太宰府天満宮は梅の季節。この歌の碑が入り口にありました。花が桜になったのは平安時代に入ってから。奈良時代は花といえば梅でした。
 
   ひとはいさ こころもしらず ふるさとは 花ぞ むかしの香ににほひける  
     
平成31年1月  何となく今年は   
 平成31年が始まり、平成の時代が終わろうとしています。平成とは何であったろうと思います。バブルがはじけ、阪神淡路大震災、3.11東日本大震災、そして熊本、広島、倉敷、大阪等等災害による甚大な被害を受けた時代、もう熱帯にあったのかという猛暑と寒波。それに莫大な国家予算の借財に、優勝劣敗の新保守主義を持ち込んだ小泉政権によって、我が国が綿々と大切にしてきた社会のあり方がぶち壊わされ、小選挙区制度という馬鹿げた制度で政治体制を変えたがために独裁型政治が誕生。いやはやである。  
平成30年12月  冬はつとめて。いと寒きに、火など急ぎ熾して、炭もて渡るも、いとつきづきし。  
枕草子の冬の描写は、冬のきびきびとした女房たちの動きが想像できて面白い。この冬の早朝の感じは、私の朝の散歩で感じる冷たさと通ずる。ピーンと張り詰め、耳も痛くなるような朝である。その朝景色は美しい。東の空がオレンジ色に染まり雪を全面にかぶった富士が金色に輝いている。木立も凛として影を欺かずだ。1時間もすれば、ゆるくぬる火もていけば、火おけの火も灰がちになり手わろし、である。きびきび、凛として、固く、カチンと音がしそうな早朝こそ冬らしい。  
平成30年11月  秋は夕暮れ。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに   
有名な枕草子冒頭の部分。本日11月26日は冬。しかしながら旧暦では10月19日で晩秋。朝の散歩では陽が昇るのが遅く、本県では6時31分。日の入りも16時37分。
烏の帰巣など見たことがないし、雁もまた然り。清少納言が秋を描いたのは内裏から見た西山方面、太秦の方向であろう。秋の描写では、この烏の三つ四つ、二つ三つという並べ方が何とも言えぬリズムを醸し出している。秀逸。 2018.11 
 
平成30年10月  野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ   
立蔀、透垣などの乱れたるに、前栽どもいと心苦しげなり。
大きなる木どもも倒れ、枝など吹き折られたるが、萩、女郎花などの上によころばひ伏せる、いと思はずなり。格子の壺などに、木の葉をことさらにしたらむやうにこまごまと吹き入れたるこそ、荒かりつる風のしわざとはおぼえね。… (枕草子第189段)
 
いやいや、今年の台風はこんなではないな。荒かりつる風の仕業とは覚えね。同感。どこかで、だれかが操作しているような台風だった。犯人は誰だ!   
平成30年 8月  朝顔につるべとられてもらい水 千代女   
人口に膾炙している加賀の千代女の名句だが、何とも描かれている内容に心が横を向く。朝顔とは美人の意味もある。釣瓶は釣瓶でつるべ井戸。その井戸の綱に朝顔の蔓が巻き付いて、井戸の水を汲めないのでもらい水したという句だが、うーん、なんとも作者のポーズが過ぎる。美人に絡まれてなど読もうものなら、この!と肘をつつきたくなる。今年の立秋は8月7日,本日から。やや例年に戻ったようで涼しくなっている。不思議なものである。  
平成30年5月  弥生も末の七日   
芭蕉の奧の細道への旅立ちは「弥生も末の七日」つまり旧暦3月27日。本日グリゴリオ暦で5月9日は旧暦3月24日。5月2日が八十八夜。5月5日は立夏、旧暦3月20日だ。芭蕉の旅立ちは初夏だった。昨日、本日の気候は3月並と報じられたが、それは旧暦1月から2月初旬のこと。寒いわけである。ついでながら旧暦では、月の終わりはつごもりで、暗闇。1日は朔日で月が出始めて、3日は3日月。15日が望月で満月。月明かりの日だ。芭蕉の旅立ちの日は暗闇に近かった。とまれ、初夏。次第に薄物の季節になっていく。   
平成30年4月  春過ぎて夏来たるらし   
   春過ぎて夏来るらし白妙の衣干したり天の香具山
        
万葉集巻一 二十八 天皇 御製歌 (持統天皇
 
  4月1日、すでにソメイヨシノは散り始め、我が町沼川縁は葉桜に混じって八重桜が満開だ。そして、わずかだが、御衣黄桜も満開になっている。ソメイヨシノは散りが早かった。しかしながら、ソメイヨシノが散ってもすぐに次が華やぐ。それは自然の摂理。沙羅双樹の花のいろ、盛者必衰の理を表すというところか。寒暖の差激しく、これは三寒四温で春季の特徴。でも、27度だという。夏だね。