学ぶ意欲の心理学 市川伸一 PHP新書171
著者は認知心理学者。認知理論と教育実践を結ぶ仕事に興味があると、その著者略歴で紹介されている。精神科医の和田秀樹氏や教育社会学の刈谷氏剛彦氏との討論がおもしろく、氏は、両者の主張を紹介し分析した上で討論に臨んでおり、三者の立場や考え方の違いがよく分かる。「動機」に内発的動機と外発的動機があるとすれば、氏の立場は内発的動機付け論に足場を置きつつ、外発的動機にも理解を示しており、教育現場の実態に理論的に足がかりを与えてくれていると思われる。
理工教育を問う  産経新聞社会部 新潮文庫
小学校の緑化委員会で、先生が「花に肥料をあげなさい」と指導したところ、六年の男子児童が真剣なまなざしで、花びらの上に肥料をかけ始めた」「遠足の途中、キンモクセイの香りがすると、児童が一斉に「便所のにおいだ。臭いな」と叫び始めた。衝撃的な事例は、小・中・高・大と続き、仕事がはかどらないので呼んで怒ると、親や先生に怒られた経験がないのか、「初めて怒られた」と言って驚いた、というような企業の「告発」まで紹介しながら、日本の理工教育の危機を描いている。教師必読の書。
学力低下論争 市川伸一 ちくま新書 359
文部科学省の政策にも世論にも強い影響を与えた「学力低下」論。それを実に冷静に受け止めている。「学力低下論争の構図」「学力低下論の源流」から始まって「みのりある教育に向けて」と展開していく市川氏の主張は、現場の教員に説得力がある。はじめの学力低下論争の構図などは多様な視点が入り交じった主張を分かりやすく表にまとめてあり、論争が俯瞰できるものになっている。学力低下論で誰が一番得をしたのか。本質を突いた鋭い問いである。
 みのりある教育。そのとおりである。
東大生はバカになったか 立花 隆 文藝春秋
知的亡国論+現代教養論と副題のついた本書は、東大教養学部の講師として実際に教壇に立った経験を基にした我が国の文教政策に対する警告と受け止めるべきである。とりわけ、著者は、21世紀は情報とバイオの時代という認識に立って科学教育のお粗末さに義務教育段階での時数削減、内容削減にも言い及びながら、日本の高等教育のあり方に警鐘を鳴らしている。一見、学力低下論に与しそうにも見えるが、むしろ学ぶことの本質と時代観・歴史観からの主張で、危機感の根っこにあるものには全く同感である。学ぶことと教養、身に付いたものとしての知を私どもはどれ程培ってきたかを考えさせられた。「21世紀 知の挑戦」(文藝春秋 文春文庫)も合わせ読むとよく理解できる。
日本の危機 櫻井よし子 新潮文庫
第10章「教育荒廃の元凶は親と日教組にあり」小見出しは、「はき違えた自由と権利」「戦後教育の敗北」「エゴイストを育てる歪んだ愛」。なかなか過激だ。
 その書き出しはこうだ。「日本の教育現場に行くと限りない「愛」がみえてくる。但しそれは自分のみがよければよいというエゴイスティックな形の愛に傾きがちだ。多様な形の溢れる程の「愛」が今の教育を歪めている。
 読んで頂きたいのはむしろ第11章だ。「母性はなぜ喪失したか。」
 櫻井は言う。
 昭和20年代、日本の女性は、世界でも1番の子育て上手と言われた。
 だが今、2〜3歳の子供を持つ母親6千名の調査では、9割が「子育ては辛い」、8割が「子供がかわいいと思えないことがある」と答えている。また「子供の虐待110番」への相談は96年度で3326件、毎年増加の一途である。「2015年頃、私は日本の育児の荒廃、母性の荒廃は満開度に達すると思います。」久徳氏の言を紹介しながら展開する育児のルポタージュには日本崩壊の危機感が溢れている。
僕が15で社長になった理由 家本賢太郎 ソフトバンクパブリッシング
野球少年を目指しながら病気のために中学にも行けなかった家本賢太郎君がふてくされたよう生活から病室で起業していく自伝。15歳で起こしたこの会社の名前は妹の名前をとって「クララ社」。病室でアメリカの大学のHPを開き辞書片手に解読し、海外の大学生とメールのやりとりをする賢太郎君の生き様から学校に行くとはどういうことか、生きるというkぽとはどういうことか、考えさせられる。中学校3年生に読ませたい本だ。